TOMMYの取材日記

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zoom RSS 昭和プロレス遠くなりにけり

<<   作成日時 : 2012/05/09 13:37   >>

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3日、プロレス誌「ゴング」編集長だった竹内宏介さんが亡くなったそうだ。

竹内さんと初めてお会いしたのは、おいらが高校2年生ごろ、だから1972年前後。
当時、上田馬之助ファンクラブ「猛将」を主宰していて、同誌が開いたファンクラブ会報コンテストで3位入賞したのに受賞楯をいっこうに送ってこなかった。
会報に「発表しておきながら何の音沙汰もないのはどういうわけか。何もかもハッタリ」と書いた。
しばらくしてから、編集部を訪ねて竹内さんと「仲直り」(笑)

ちなみに、楯とかトロフィー、カップなんてものはことごとく処分してきたが、
今でも捨てずに置いてあるのは、この時の楯とサーフィンコンテストAクラス2位の楯、
ゴルフコンペの優勝(取り切り戦)のカップのみ。
それだけ思い入れのある受賞楯なのだ。

ファンクラブ誌「猛将」は「セメントなら上田が一番強い」を前面に押し出した編集スタイルだったが、
竹内さんはゴング誌面でも上田=セメント野郎と書き、猛将上田という表現もしてくれた。

日本プロレス崩壊後、上田さんは「馬場の全日プロにいたのではおしまい」と、
アメリカに渡った。
「猛将」には1週間単位でプログラムやスケジュール、試合の感想などを送ってくれ、
なんとか会報を発行できるネタはあった。
だが、日本で上ちゃんの試合が見たいわけで。
どうすれば再び日本のリングに立てるか、いや、セメントファイターとしてこれまでの屈辱を晴らすには? と日本一の上田ファンのおいらは常に考えていた。

余談だが、上ちゃんの出身地・愛知県の後援会との連携が始まり、アメリカでの活躍ぶりを名古屋のTV局で放映する、という話が持ち上がった。解説はおいら。その打ち合わせに何度も名古屋へ通った高校3年生だった(笑)
生意気そうなコメントも今だから言うが、周りの同級生は皆お子ちゃまに見えた。

チャンピオン面している馬場や猪木に公開挑戦状を出そう、
というプランを上田さんと練り、
竹内さんにお会いし探ったところ、「そういうアクションを待ってたんですよ。なんならウチだけの独占に」と。

「上ちゃん、プロレスマスコミの感触はいいみたいです」と報告。
国際プロレスの吉原代表は、力道山の指導を受けた日本プロレスの、それもガチンコに強い上田さんをリングに上げたくて、日テレの契約切れを待ち、R・木村さんへの挑戦受諾という形で受け入れてくれた。
そして金髪の上田馬之助が誕生した、というわけ。おいらが大学2年の話だ。
(最初は前頭部だけ)金髪の上田馬之助を一番最初に見た関係者は、羽田に迎えに行ったおいら、またはレフェリー兼外人担当のマンモス鈴木さんだ(笑)

この後、日本人対外人という図式から日本人対決が主流になり、
上ちゃんがいつも言っていた「外人の高いギャラを抑えられる」ようにもなった。

時は流れ1992年。
古巣タウンで初めてプロレスプロモートした「オリエンタルプロレス」。
プロレス団体の旗揚げ戦だったこともあり、竹内さんが会場に取材に来ていて、旧交を温めた。
旗揚げマッチは大きく取り扱い、記事冒頭には「学生時代に都会でいろいろなビッグマッチに触れた人間が社会人となって故郷に帰り・・・」と、おいらのことも書いてくれた。
このゴング誌も捨てられない「宝物」の一つだな。

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青春まっただの中で貴重な体験をし、様々なことを学んだのが昭和プロレス。
懐かしいなあ、の一言。

プロレス黄金時代、今振り返ると大きな変動の時、瞬間的ながら接することができた竹内さん。
ご冥福をお祈りします。合掌。

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